匿名希望の日記帳

がんばれわたし

2023/04/02 春暁

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春眠 不覚暁 (春眠 暁を覚えず)

処処 聞啼鳥 (処々 啼鳥を聞く)

夜来 風雨声 (夜来 風雨の声)

花落 知多少 (花落つること 知んぬ多少ぞ)

 

春の眠りは(心地よく)、夜が明けるのが分からない

(目を覚ますと)所々で 鳥が鳴いているのが聞こえる

昨夜以来の雨風の音(がしていたが)

花は どのくらい散ってしまっただろうか。

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孟浩然による有名な漢詩「春暁」である。

暖かさから昼まで布団にくるまり、ぼーっと起きた中で鳥の鳴き声を聞き、昨日の雨の事を思い出して花を思う。日本人的には古典での花=桜と思いがちだが、中国では何だったのだろう。風で散るのはやっぱり桜ちゃうんかな。知らんけど。

なんにせよとても幸せな春である。視覚ではなく聴覚に頼ってこの幸せさを表現しているのがぼややんとしてる感を強調している。あの暖かさに包まれてぼやや~んとすることのなんと幸せなことか。

春 眠 不 覚 暁

五言絶句で、その形通りに”鳥”と”少”で韻を踏む形になっている。ついでに”暁”で韻も踏めている。

最後の行は読み下しにいくつか説があるようで、習った覚えのあるこの読み下しだと「知んぬ」は「知りぬ」の音便で、「知り(知るの連用形)+ぬ(連用形接続であることから完了の助動詞)」、「多少」は「How many~?」、つまり程度を示す疑問詞(今でも中国語には多少という疑問詞がある)、「ぞ」は係助詞、文末に来ているので結びの省略、強意と考える。すると、「(昨日からの雨風で)花が落ちたことをどれほど(自分が)知っていたというのか=どれくらい花が落ちたか(自分が)知っていたか=どのくらい花が散ってしまったかな?」となる。標準語だとなんか硬いけど、関西弁にすると「風吹いてたしなあ…なんぼほど散ってしもたやろ(ぎょうさん散ったんやろなあ…)」という、妄想混みのHow many~なのが春の陽気から感じられる。なんせ古典の時代は首都は京都だったのだ。古典、漢文は関西弁で訳す方がアレかも。そらアレよ。

文法の堅い話はこの辺にして、とても素敵な現代文訳を紹介しよう。

ネムタイ朝ノユメゴコチ/チュンチュン雀モ鳴イテイル
 昨夜ヒトバン雨風アレタ/花モヨッポド散ッタロウ
                                                                                                  (松下緑・柳川 創造による)

 

 

 

桜が風に舞って散る様を見ながら、うとうと…と眠くなってきたところでラジオの叫び声で起きた。原口がホームランを打ったんよ。チーム一号は原口でした。しかも代打で。そして開幕3連勝。強すぎてめまいがする。本当に知っている阪神ちゃんなのか。

明日は”打つんだ、春の大山”で一本書こうか。大山に大きいの打ってもらうために。

 

じゃ。